「カネがない」は嘘である。エンタメに溺れ、孤独に沈む日本の自滅的未来

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「カネがないから産めない」という壮大な欺瞞

まず、ワイドショーのコメンテーターたちが垂れ流す感傷的な「少子化論」の欺瞞から解体していこう。彼らは口を揃えて「経済的な困窮が若者から子供を産む希望を奪っている」と嘆いてみせる。しかし、これは国民を思考停止に陥らせるための、極めて悪質なプロパガンダに他ならない。本質は、そんな生易しい場所には存在しないのだ。

この国の少子化の真犯人は、「貧困」ではない。子育てという長期的なプロジェクトの価値を暴落させるほどに、この社会が安価で即物的な「快楽」で満たされてしまったこと、これこそが根本的な病巣である。現代人は、子育てよりも遥かにコストパフォーマンスの良いエンターテイメントに囲まれて生きている。クラブで踊り狂う一夜の興奮、マッチングアプリで次々と現れる異性との刹那的な関係、際限なく供給される動画コンテンツ。これらドーパミンを瞬時に分泌させる刺激の洪水の中で、「子供を育てる」という二十年にも及ぶ重労働が魅力的に映るはずもない。

「経済的なゆとりがあれば産む」という言葉は、社会的な非難をかわすための完璧な言い訳(アリバイ)として機能している。「カネがない」という訴えに対して、「それでも産め」と強制する人間はいないからだ。この体裁の良い嘘を真に受け、政府がどれだけ補助金をばら撒こうとも、その金は子育てではなく、目先の快楽を最大化するための消費、すなわちマッチングアプリの会費やソシャゲの課金へと消えていくだけである。これは、個人の道徳の問題ではなく、極めて合理的な経済判断の結果なのだ。

「投資」から「高級な消費」へ、暴落した子供の価値

かつて、子供を持つという行為は、極めて合理的な「投資」であった。娯楽が存在しない前近代的な社会において、セックスは最も手軽な快楽であり、その結果として生まれる子供は、貴重な労働力であり、老後の生活を保障する「人間年金」であった。感染症で多くの子供が命を落とす時代、たくさん産むことは生存戦略そのものだったのだ。親が子を「投資先」として見て、期待通りに動かなければ「裏切られた」と憤慨するような価値観は、ほんの数十年前までこの国にも確かに存在していた。

しかし、現代社会において子供は完全にその価値を変容させた。子供はもはや「投資」ではなく、親の見栄や自己満足を満たすための、極めて高価な「消費財」へと成り下がった。しかも、それはフェラーリや高級腕時計のような、ステータスを誇示するためのラグジュアリーアイテムである。

SNSには、完璧な育児、最高の知育、お洒落な子供服に身を包んだ我が子の姿が溢れかえっている。かつては「五体満足で数が揃っていれば良い」という程度の雑な投資対象だった子供は、今や「一点豪華主義でプロデュースすべき最高傑作」という重圧を親に課す存在となった。この青天井のコストと期待値は、子育てという「商品」を、ごく一部の富裕層しか手を出せない超高級ブランド品へと押し上げ、大多数の庶民にとっては手の届かない選択肢にしてしまったのである。

ドーパミンの罠と、40歳で訪れる「手遅れの地獄」

この残酷なゲームには、さらに致命的な罠が仕掛けられている。人生を「前半戦」と「後半戦」に分けた時、前半戦における最適解が、後半戦における取り返しのつかない最悪手となるという、時間差で発動する時限爆弾である。

20代、30代という人生の前半戦において、若者は将来の孤独など実感できない。経済学で言うところの「時間割引率」が極めて高い状態にあり、遠い未来の漠然とした幸福よりも、今この瞬間に手に入るドーパミンを最大化しようとする。仕事での成功、友人との交遊、刹那的な恋愛。これらの刺激的なイベントに比べれば、子育ては退屈で、自由を奪うだけの足枷にしか見えない。この時点では、子供を持たない選択は極めて合理的に映る。

しかし、40歳を過ぎ、人生の後半戦に突入した時、風景は一変する。体力は衰え、キャリアの先も見え始める。かつて夜通し語り合った友人たちは家庭という名のシェルターに引きこもり、連絡は途絶えていく。その時になって初めて、人々は自らが立っている場所が、広大で寒々しい孤独の荒野であることに気づくのだ。「あの時、子供を産んでおけばよかった」と。だが、その絶望的な後悔が訪れた時には、もう遅い。出産というガチャは、生物学的なタイムリミットによって無慈悲に打ち切られている。自由という名のレールなき道を突き進んだ結果、人生というゲームでセーブポイントからやり直すことのできない、唯一の重大な選択を誤ったという冷徹な事実に直面するのである。

少子化対策という名の茶番劇と、民主主義の構造的欠陥

このグロテスクな未来を前に、国家が提示する「少子化対策」は、もはや喜劇としか言いようがない。彼らの議論は常に「いかにして未婚者を結婚させるか」という入り口の部分で堂々巡りをしている。しかし、価値観が多様化した現代において、快楽に最適化された独身者を、結婚という不自由な制度に無理やり押し込むことなど不可能だ。

本当に効果的な戦略は、ただ一つ。すでに結婚というハードルを越え、子育ての現実を知っている夫婦に対して「もう一人産んでもいいかもしれない」と思わせるインセンティブを与えることだ。子供の数に応じた所得税の大幅な減税や、二人目、三人目に対する巨額の現金給付。これこそが、最もコストパフォーマンスの高い唯一の正解である。

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では、なぜこの自明の解が実行されないのか。それは、この国の民主主義が、未来への責任を放棄した多数派のエゴによって完全に機能不全に陥っているからだ。子育て世帯への手厚い支援は、数の上で多数を占める独身者や子のいない世帯から見れば「独身税」に他ならない。「なぜ我々の税金で、他人の子育てを支援しなければならないのか」という嫉妬と不満が噴出するのは目に見えている。政治家は、次の選挙で自分を落選させる可能性のある、この巨大な票田を敵に回すことを何よりも恐れる。

財源がないわけではない。投票率の高い高齢者が享受している過剰な医療福祉に少しでもメスを入れれば、未来への投資資金などいくらでも捻出できる。しかし、それもまた、シルバー民主主義という名の強固な岩盤に阻まれる。結局のところ、誰もが「自分が損をしたくない」という短期的なエゴに囚われ、国全体が緩やかに窒息していくという「合成の誤謬」の罠から抜け出せないのだ。これは、もはや解決不可能な構造的欠陥であり、我々はこの国が自らの選択によって静かに沈んでいく様を、ただ見届けるしかないのかもしれない。

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