月曜の朝、日本の大動脈が止まることの経済学的意味
週の始まりである月曜日の朝8時、山陽新幹線が止まった。
理由は通過駅での人身事故。平たく言えば、通過列車への飛び込み自殺だ。ビジネスパーソンたちが「さあ今週も働くか(あるいは働かされるか)」と重い腰を上げたその出鼻をくじくように、ダイヤは寸断され、駅は溢れかえる人と怒号で埋め尽くされた。
この光景は、もはや日本の現代社会における「風物詩」と言ってもいい。
だが、ここで「亡くなった人も可哀想に」「居合わせた乗客は災難だった」と感情論で終わらせてはいけない。なぜなら、この事故は単なる個人の悲劇ではなく、日本社会が頑なに直視しようとしない「構造的なバグ」が引き起こした、必然の帰結だからだ。
私たちは今、「死ぬ権利」を認めないことのコストを、もっとも非効率な形で支払わされている。
「通過駅のゲート」がない本当の理由
まず、物理的な側面から見てみよう。
なぜ、時速300km近い鉄の塊が通過する駅に、ホームドア(ゲート)がないのか。「安全第一」を掲げる鉄道会社が、なぜこれほど危険な空白を放置しているのか。
答えは残酷なほどシンプルだ。「割に合わないから」である。
東海道新幹線のように車両編成が統一されている路線ならまだしも、車種もドア位置もバラバラな山陽新幹線において、全駅に可動式ゲートを設置するには莫大なコストがかかる。1駅あたり数億円から十数億円。それを、利用者がまばらな通過駅すべてに導入したところで、売上は1円も増えない。
企業経営の論理(ROI:投資対効果)で考えれば、数年に一度起きるかどうかの人身事故の損害賠償や振替輸送のコストを負担するほうが、全駅にゲートを整備するよりも圧倒的に「安い」のだ。
つまり、今朝ホームから飛び込んだその人は、鉄道会社のバランスシート上では「想定内のコスト(必要経費)」として処理されている。そして、そのコスト計算のあおりを受けて、我々乗客は貴重な時間を奪われているわけだ。
人生の「損切り」を許さない社会
しかし、問題の本質はインフラの未整備にあるのではない。
なぜ、彼は(彼女は)、よりによって月曜の朝の新幹線を選んだのか。誰にも見つからずひっそりと死ぬ方法はいくらでもあるはずなのに、なぜ数万人を巻き込む派手な「自爆テロ」のような手段を選んだのか。
それは、この国に「安らかな出口」が用意されていないからだ。
スイスやオランダ、あるいは北米の一部の州では、耐え難い苦痛を抱えた人間に対して、医療的な介助による死(安楽死・尊厳死)が法的に認められている。人生というゲームを降りるための「正規の手続き」が存在するのだ。
一方、日本はどうだ。「生」は義務であり、どんなに苦しくても、どんなに絶望的でも、心臓が動いている限りは生き続けなければならないという強烈なパターナリズムが支配している。
出口のない部屋に閉じ込められた人間がどうするか想像してみてほしい。ドアが開かないなら、壁を壊すか、窓を割って飛び降りるしかない。
新幹線への飛び込みは、社会という密室に閉じ込められた人間が、システムそのものを破壊して無理やり「外」に出ようとする暴発だ。彼らにとって、社会的な迷惑など知ったことではない。むしろ、自分を無視し続けた社会に対して、最後に巨大な爪痕を残すことは、ある種の痛快な復讐ですらあるかもしれない。
「全員不幸」というシステム
この現状は、ゲーム理論で言えば最悪の「ルーズ・ルーズ(全員負け)」の状態だ。
まず、死を選んだ本人は、恐怖と苦痛の中で肉体を飛散させて死ぬことになる。尊厳などあったものではない。
鉄道会社は、事後処理と職員のメンタルケア、そしてダイヤの乱れによる信用失墜という損害を被る。
そして私たち乗客は、何ものにも代えがたい「時間」という資産を略奪され、すし詰めの車内で疲弊する。
誰も得をしていない。全員が被害者だ。
もし仮に、日本社会が「死ぬ権利」を認め、行政サービスとして安らかな最期を提供していたとしたらどうだろう。彼は静かに病院のベッドで眠りにつき、新幹線は定刻通りに走り、ビジネスマンは予定通りに商談をまとめていただろう。
「命を大切に」という美名のもとに、安楽死の議論をタブー視し、臭いものに蓋をし続けた結果、その蓋が吹き飛んで、もっとも醜悪な形で中身が撒き散らされているのが今の日本だ。
我々は「迷惑料」を払い続ける
もちろん、安楽死の法制化には倫理的なハードルが高いことは承知している。滑り坂論法(なし崩し的に対象が拡大する懸念)も無視できない。
だが、綺麗事を抜きにして経済合理性だけで考えるなら、「出口戦略」のないプロジェクト(人生)ほどリスクの高いものはない。
高度に複雑化した現代社会において、一人の人間がシステムを停止させる力はかつてないほど大きくなっている。たった一人が線路に降り立つだけで、数万人の経済活動が止まるのだ。
私たちは、見知らぬ誰かの絶望が、ある日突然、自分のスケジュールを破壊するリスクを常に背負って生きている。「死ぬ権利」を認めないコストは、税金としてではなく、「新幹線の遅延」や「人身事故による足止め」という形で、私たち一人一人に不定期かつ強制的に請求されている。
今朝、博多駅のホームで途方に暮れながら私は思った。
ゲートを作る金がないなら、せめて「出口」を作ってやればいいのに、と。そうすれば、彼はあんな痛い思いをして死ぬ必要もなかったし、私はこうしてブログのネタにする代わりに、優雅にコーヒーを飲んで仕事に取り掛かれたはずなのだから。
社会が「死」から目を背け続ける限り、月曜の朝のサイレンは鳴り止まないだろう。


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